2021.01.14
新年のご挨拶がすっかり遅くなってしまいました。
皆様お変わりなくお過ごしでしょうか。
今年は「おめでとうございます」という気持ちには中々なれませんでした。
しかしながら、こうして今、命を頂いている事に、感謝の気持ちが今まで以上に湧いてまいります。
テレビや新聞から入ってくる情報と、日々の苦難とで押しつぶされそうになってはいませんか?
私は情報もほどほどにし、必要以上に考えないようにしています。
お寺の前の公園では、大人たちからマスクの着用や手の消毒を強いられながらも、
大はしゃぎで遊んでいる子供の姿があります。
出来る範囲内で大いに楽しみを見つける子供たちの姿が、眩しくもあり、また教えられます。
さて、人生が思い通りに進んだら・・・どうでしょう・・・
私はきっとダメ人間になっていたでしょう。
私利私欲にまみれ、もしかしたら生きてさえいないかも知れません。
苦難があってこそ人は変わっていくのですが、
正しい方向に変わっているか。これもまた大きな違いを生みます。
自分も他の人も幸せになれる方法を、仏様は常に惜しみなく教えて下さっています。
誰にでも分け隔てなく接することが出来ているか・・・。
年初めに心に刻んで、今年も精進して参ります。
2021.02.01
今年も早一ヶ月が過ぎました。
こうして月日はあっという間に流れていきます。
振り返ってみますと、今まで不毛な時間をどれだけ過ごしてきたかと思います。
もし、その不毛な時間を搔き集めて「充実した時間」に変えたなら
もっと豊かな人になっていたかもしれません。
しかし残念ながら「もし」は無いのです。
どんな時も「今、ここから」が出発なのです。
「どんなことも『遅い』ということはない」というようなテレビを見たことがあります。
90歳で始めたパソコン。80歳で大学入学。など、生き生きとしておられる高齢の方は増えています。
一方で、目の前の欲に負け「今やるべきこと」から目を背ける。
または、自分が傷つくことを恐れて、見て見ぬふりをするということもあるかもしれません。
相手があるときには尚更です。
「ありがとう」の一言も、時間が経ってしまえば色あせ、
「ごめんなさい」の一言も、効力を失うことになるやもしれません。
体の調子が悪いと思ったら医者に診てもらうのもそうです。
日々の掃除や洗濯もそうでしょう。
子どもを育てることもそうでしょう。
枯れてから水をあげても手遅れ、ということも多々あるのではないでしょうか。
いくつになっても「やるべきこと」はあるはずです。
充実した、実のある時間を過ごし、心豊かな人生を送りたいものです。
2021.03.01
「終わりは何かのはじまり」
と聞いたことがあります。
「終わり」「別れ」という言葉には、何か寂しげな印象を感じます。
しかし、そこから新たな人生がはじまる、前向きな言葉でもあるのです。
別れや終わりを告げるものに感謝をし、それをバネに新たな世界へ踏み出す。
卒業・入学・就職・一人暮らしなど、多くの人がこの時期に経験することでしょう。
そして季節に関係なく「死の別れ」は訪れます。
「生まれる」ということは「必ず死に至る」ことです。
それは「いつ」なのか、誰にも分らないのです。
ですから日々の出会い一つ一つが奇跡ともいえるのです。
一日の終わりに、今日はどんな出会いがあったか思い巡らせてみてはいかがでしょうか。
2021.04.01
「天上天下唯我独尊」は、お釈迦さまの誕生にまつわるエピソードを調べると
必ずと言っていいほど出て参ります。
しかし、その解釈はまちまちで、自画自賛のように書かれているものも少なくありません。
現在では、お釈迦さまのようなお人柄の方が、そのように言うとは考えにくく、
「私がそうであるように、誰もがこの世界(宇宙)に二つとない、尊い存在なのです」
と解釈されています。
己がそうであるように、他の人もまた様々な境遇に生まれ、様々な人生を歩み、
生老病死の苦を味わいつつ、いつかは必ず浄土へと参る身です。
そう思うと他の人を見る目が変わっていくのではないでしょうか。
あの人も、この人も、赤ちゃんからお年寄りまで、みんな一生懸命に命を燃やして生きている、
どんな人も必要あって、この世を共に生きる人なのだと思えてはこないでしょうか。
みんながそんな優しい眼で見ることが出来たら、きっと世界は大きく変わるでしょう。
4月8日のお釈迦さまの誕生は「降誕会」「生誕会」「灌仏会(かんぶつえ)」とも言われ、
この天と地を指さすお釈迦さまの像に、甘茶をかける習わしがあります。
甘茶は、お釈迦さまがお生まれになった時に九頭の竜が現れ、甘い水を吐き、
それを産湯に使ったことを表しています。
伝説は色々ありますが、2600年という時を経ても、決して色あせない
不変の真理に驚かされると共に、感謝の気持ちが湧いてまいります。
2021.05.01
以前ある先生から、
『「慈悲」といいますが、「慈」と「悲」、どちらが先に生まれると思いますか?』
という質問がありました。
会場では「悲だと思う」という方がほとんどでした。理由としては
『悲しみや苦しみを抱えている人がいるから、それを慈しもうという心が生まれる。』
というものでした。
先生は「それも間違いではありませんね」という言葉にとどめられました。
どうもそれが気になってしまい、後々まで考えてしまったのですが、
私は「慈悲」そのものが愛だと思うのです。
「悲しみがあるから愛がある」のではなく、「愛があるから悲しむ」のではないでしょうか。
相手の苦しみを共に感じ取り、共に前に向かって歩んでいく。
仏さまはいつも私達に寄り添い、悲しみ苦しみにはより一層、慈悲の心を注いでくださっています。
そしてあなたの周りに化身となって、様々な形で慈しんでくださっています。
それを感じ取れるかどうかで、幸せ度に大きく影響するでしょう。
2021.06.01
今月は何度やってもピンボケしてしまい、ご了承くださいませ。
今迄とは違う生活様式が続いており、自分自身がピンボケしていないといいのですが・・・
(カエルがマスクしているの見えますか?)
さて、哲学者であったアリストテレスが、お釈迦さまと同じことを言っていたとは本当に驚きです。
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」
という言葉もありますね。
『中道』を心がけ、偏りのない人は、常にニュートラルで、
いつでも様々な変化に柔軟に対応できる事でしょう。
しかし、「何かを極める」ことは、心の『中道』とはまた別のことで、素晴らしい事です。
いくつになってもチャレンジすることを恐れず、明るく前向きな日々を送りたいですね。
2021.07.01
月が変わる度に「もう〇〇月か~」と思いますね。
ちょうどあと半年、どのような心で過ごしたらよいか、今いちど年始の心を確認しようと思いました。
今回は、この度、坊守が体験したことを書かせて頂きました。
全身麻酔での手術というのは、なかなかの覚悟がいるものです。
高齢になれば尚更、傷んでいない所にも影響があるのではないかなど、心配は尽きません。
今はコロナ禍で、入院中の面会は許されず、
麻酔の副作用や、傷の痛みに耐える姿を見舞うことは出来ませんでした。
しかし、長くご法に縁を頂いている坊守は「辛い中にこそ気付きがある」という事が
「体質」になっているのでしょう。
池に石を投げると水の輪が広がるように、一人一人の言動が様々な影響を与えています。
その事を決して忘れてはいけないと、日々心がけています。
こうして仏様の教えに縁を頂いているのですから、『諸法無我』の中でも
「良い縁」を繋いでいきたいですね。
2021.08.01
どうなる事かと思いましたがオリンピックが開催されましたね。
開会式の内容が賛否両論のようですが、世界が激変ししていく中、
プロジェクトにかかわった方々、パフォーマンスをした方々は
あの日までに全ての動きを考え、覚え、体調を整え、本当に大変だったことでしょう。
私はとても感動いたしました。
私達は日々「やらなければならない事」にあふれています。
「心からやりたい事」なんて、なかなか時間が取れないのではないでしょうか。
そして心の中はどうでしょうか
「考えなくてはいけない事」「考えなくてもいい事」「考えたくもないのに考える事」
で一杯なのではないでしょうか。
一日に一回でも、二日に一回でも、一週間に一回でも
是非「心に栄養を与える時間」「心をリセットする時間」を持ってみてはどうでしょうか。
やり方は人それぞれですが、私は空を見上げます。
空は晴れていたり、曇っていたり、雨が降ったりして、まさに諸行無常です。
しかし、昼間であれば雲の上はいつでも晴れなのです。不変です。
そして更に上に行けば宇宙が広がっています。
その宇宙に涅槃寂静を感じ、自分の心を見つめます。
そのたびに反省然り。そして感謝然りです。
2021.09.01
『袖すり合うも多生の縁』の本当の意味を初めて知った時はギョッとしたものです。
その本には「電車で隣に座った人でさえ、それまでに何百という前世でも会っている」
と書いてあったのです。
ですから繰り返し会う人などは、それはそれは深いご縁で繋がっているという事なのでしょう。
さて、「相手の幸せを願う」人になれているでしょうか。
私達は「自分の幸せを願う」人になるのが得意です。
「相手の幸せを願う」その心には曇りがあっては意味がありません。
何かをやってあげたら何かが返ってくる、などという見返りを求めない、純粋な願いです。
それはまさに、仏様が私達を思う気持ちである「仏性」と同じです。
「相手の幸せを願う」とき、私達は仏と一体になり、心が満たされ、
豊かで幸せな気持ちになれるでしょう。
相手にとって、それが本当に望んでいる事か、必要であるかどうかはまた難しいことではありますが、「お互いの幸せを願い合う」
そんな世界が広がったら、世界平和も夢ではないのではないでしょうか。
私のように、今世で「純粋な願い」が難しい人間でも、来世、そのまた来世の自分に期待して、
たゆまず、コツコツと心がけていきたいと思います。
2021.10.01
秋晴れというのは本当に清々しく、一年中この陽気が続くといいのに・・・と思います。
しかし、人生と同じで、厳しい冬や夏があるからこそ、沢山の恵みを私達は受けているのだ
とも思います。
さて、一般的には『色眼鏡』と言うと分かりやすいでしょうか。
人は、これまでの経験や考え方の違い。又は外からの情報などによって、
各々「目には見えない私だけの眼鏡」をかけています。
その眼鏡がどれだけ磨かれているか。真実が見えているか。常に自分に問う事が大切です。
仏教には『八正道』という教えがあります。
それを実践することで精進していくという八つの行いです。
その一番初めに言われているのが『正見』、正しく見るということです。
惑わされることなく、仏様の目から見たらどのように見えるのか。
自分の色眼鏡を外してみたら、又は磨いてみたら、全く違って見えるかもしれません。
相手のことも尊重することが出来ると、自分の心が軽くなり、とても楽になります。
思いやる心も生まれます。きっと相手も楽になる事でしょう。
これが「器を広げる」ということです。
棘の道も、よくよく見てみたら草の道なのかもしれません。
2021.11.01
私達は一生の間に多くの人と出会います。
短時間出会う人から仕事場などで長時間出会う人まで
時間の長さは違えども、「さよなら」や「退職」などで離れることができるので、
「外面」や「うわべだけ」のような付き合いが出来ます。
しかし、毎日のように顔を合わせる家族には『素』が出る事でしょう。
どんなに外で評価をもらっていても、どんなに外で笑顔を振りまいていても、
家にいる時の自分がどうであるかが大切です。
何より、自分が幸せであるために、家庭の和は欠かせないのです。
家族にも感謝の言葉を伝えていますか?ねぎらいの言葉をかけていますか?
素直に謝っていますか?感動を分かち合っていますか?お互いを尊重していますか?
特に子供にとって、家が安心できる場所であるかどうかは大変重要です。
「帰りたい」と思える家であるでしょうか。心を癒せる家であるでしょうか。
家庭を三つの和に分けることが出来ます。
「家族の和」「健康の和」「経済の和」
隣の芝を見て、比べる必要はありません。
我が家の芝を青くしようではありませんか。
それこそが、この世を明るくする第一歩であり、仏様の願いでもあるのです。
2021.12.01
「諸行無常」という言葉は、学生の時に古文で習いますね。
『平家物語』の冒頭にあります。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
おごれる人も久しからず、唯春の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。
これを暗記して、先生の前で言わされました。
たいして意味も分からず、あの苦労は何だったのかと思っていましたが、
今こうして見ますと、なんとまあドラマチックな文章ではありませんか。
確かにどれもマイナスなイメージとして表現されていますね。
桜が散るような、盛んな事もいつかは終わりを告げると言った感じですね。
しかし、「変化」という言葉には色々な可能性を感じます。
改革・成長・向上・進化などのプラスのイメージです。
赤毛のアンにこんな言葉があります。
「明日はまだ失敗のない新しい日」
毎日失敗ばかりを繰り返す彼女の、諦めない、前向きな性格が滲み出ています。
キラキラとした明るい世界が見えるようです。
さて、母が毎月書いていました看板も、今月が最後となりました。
見て下さる方が徐々に増え、母も手が抜けず(笑)苦戦した月もありました。
それでも続けさせて頂けたのは、他でもなく、私達が学ばせて頂いていたからです。
その事に心から感謝をして、一区切りつけさせていただきたいと思います。
本当にありがとうございました。
看板にありますように、これを一冊の本にまとめようと計画中です。
出来上がりましたらご報告させていただきます。
来年からどうなるか・・・。
「来年はまだ失敗のない新しい年」ですね!